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伊藤蒔子/デビッド大山 二人展によせて

「視覚のテロリスト或は聖なる十字架」 東京綜合写真専門学校校長 伊奈英次

 二人展とは一体なんなのであろうか?異質な個性がぶつかり合う濃密な場、などという月並みな表現は何の意味もない常套句であり二人に対して申し訳がない。この二人の出会いはある意味で奇跡の出会いと言うに等しい。アメリカ国籍を持ち韓国の血が流れ現在横浜の日吉に居を構える大山、そして伊藤の出身地は東北の岩手県、東北と言えば不幸な奇跡の東日本大震災である。そして座敷童子も出没する。伊藤は座敷童子を隠して人間として現れた。奇跡の出会いの歯車が二人の邂逅を演出した。神はサイコロ遊びをしない。二人の出会いは神が仕組んだ必然なのである。

 ネズミの住処を思わせる不潔な片隅に集積したモノたち、工場の火災現場で焼け爛れ溶解したモノたち、この両者の織りなす摩訶不思議な光景・・・伊藤と大山が提示する写真群は、情報化社会の中で全く存在意義を見いだし得ない写真、あえて言えば全く価値が無いどうでもいい写真群である。これは現代の映像文化に全く必要がないという意味において写真文化に対する挑戦であるのかもしれない。2人に共通する特徴は遺棄される運命にある人間社会にとって無駄なモノたちの資本主義的消費文化の成れの果て「モノたちの死体安置所」の記録である。デジタルテクノロジーを駆使したバロック的装飾過剰なテクスチャーを実現しているのは大山の写真の特徴であり、伊藤は朽ちた家屋の裏や隅っこの一角に占められ打ち捨てられ忘れ去られようとしているモノたちを、銀塩カラープリントという伝統技法によって実現した素っ気ない写真である。それらはまるでモノたちの最後を飾る葬送の儀式のようだ。一体これらの写真は何を我々に提示するのであろうか?

 かつて利用しながら台無しにするという行為を新たな表現の起爆剤にした行為者は多数いた。しかしその行為はある意味で見返りを全く求めていないかのように装っている巧妙な欺瞞が隠されていた。彼らとて社会的な評価を無視するほど馬鹿ではない。しかしこの2人はそのような見返りが届かぬ遥か遠くの地平を目指しているように見える。それはこの世に生まれた限り好きな事を誰にも邪魔されずにする行為の純粋性に目覚めたからなのであろうか。一通りの写真の約束事を学んだ彼らは、自爆テロリストのごとく、ある効果だけを期待する。社会に対する衝撃や混乱に乗じて政治的陰謀を達成するのがテロリストだとすれば、彼らは無視される事を最初から折り込み社会を嘲笑すること、そして最大の目的は写真にのみ可能となった、機械の冷徹な目と化し、その無慈悲さの現実を、光学装置を利用して暴露する視覚のテロリストとして武装することなのであろう。

 そもそも人類は進化に伴い脳が異常に発達して結果、文明や文化を発展する事が保証された。しかしそれは犯罪や戦争などの負の遺産をどうにも捨て難い人類の原罪として背負わざるを得ない結果を担ってしまった。頭が大きくなれば誇大妄想も膨らむ。しかし国家や宗教など組織化された者たちの指導者は資金元を税金やお布施に求めることによって武装暴力装置を実体化することが可能であるが、2人には多少の資金と写真を制作する時間の猶予しか許されていない。この2人に残された最終兵器、写真文化を卑下し嘲笑し、そして資本主義的商業主義の見返りを求めず、台無しにする、にも関らず美しさの極地を夢見ること、そして敗残兵のごとく無惨な玉砕という栄光を墓碑銘に刻むことこそ、2人に架された聖なる十字架なのだ。予言者の到来は奇跡の出会いによって成就する。十字架という報われることを放棄した奇跡の2人によって。